" /> 歴代のプロ野球助っ人外国人選手の中で印象に残っている選手 | さいたまたいさ

日本に来た助っ人外国人選手(プロ野球)

野球

歴代のプロ野球助っ人外国人選手の中で印象に残っている選手を紹介したいと思います。
有名どころのランディー・バース選手やアレックス・ラミレス選手、アレックス・カブレラ選手、
タフィ・ローズ選手、ロバート・ローズ選手、オレステス・デストラーデ選手、ラルフ・ブライアント選手、ウォーレン・クロマティ選手などは除いています。※どの範囲までが有名かは難しい判断ではありますが。。

ドン・マネー内野手:近鉄バッファローズ(1984年)

メジャー・リーグでは1973年から1974年にかけて88試合・261守備機会無失策の新記録を樹立。1974年および1976年~1978年にはMLBオールスターゲームに出場した名内野手です。

1983年限りで現役引退する予定でしたが、近鉄バファローズから2年契約の約2億2000万円、住居の提供などの契約条件を提示され、引退を翻意して契約します。


しかし日本に来てみると、球団から用意されたマンションはパンフレットで見せられたものとはまったく違い、老朽化が進み、ゴキブリがゾロゾロ。アメリカで巨人の試合を見たことがあったが、本拠地の藤井寺球場・準本拠地の日本生命球場は老朽化しており設備・環境は劣悪、また当時のパリーグの観客の少なさにもガッカリしたそうです。

近所に居住するアメリカ人や英語を話せる地元住民もほとんどおらず、心細い異国の地での生活で心の支えとなる友人が非常に作りにくい環境下であったため、一緒に来日した妻子までもがホームシックになってしまいました。

しかし、このように酷い待遇を受けていたにもかかわらず、退団会見では「球団に責任は全くない。すべて、この環境に慣れることができなかった私の責任だ」と語りました。

ドン・マネー選手に関しては、「球場が汚いから辞めた」とばかりの部分が強調されてその箇所しか知らない人もいるようですが、選手としても人としても優れや人格者だったと思います。

マイク・グリーンウェル外野手:阪神タイガース(1997年)

メジャーリーグぼボストンレッドソックスで通産打率3割3厘、MLBオールスターゲームにも2度出場したバリバリのメジャーリーガーです。

そんな選手なので阪神タイガースの期待値も大きく当時の球団史上最高額の年俸3億円超という条件で入団しました。

しかしシーズン前の春季キャンプ途中で背中の痛みを訴え一時帰国し、再来日は4月30日でした。そして5月3日の対広島東洋カープ戦で公式戦初出場し決勝打を含む2安打2打点で実力を発揮したと思われましたが、5月10日の対読売ジャイアンツ戦で自打球を右足甲に当て骨折し、「野球を辞めろという神のお告げ」があったと当時有名となった台詞で5月16日にアメリカに帰国しました。

阪神ファンにとっては、ある意味でランディー・バース選手と同じくらいのレジェンド外国人選手だといえます。

リック・ランセロッティ(ランス)外野手:広島東洋カープ(1997年、1998年)

成績だけを見ると、助っ人外国人選手としては特に目立った成績はありませんが、個人的に非常に印象の残っている選手でしたのでピックアップしました。

助っ人外国人選手のイメージとして、三振が多く一発狙いのスラッガーが多いというイメージが一般的にもあると思いますが、このランス選手はそのイメージ通りの選手です。1997年シーズンは本塁打39本で本塁打王となっておりますが、打率は.218で規定打席到達者のうち最低打率となっています。三振も114個と最多三振となり、シーズン安打数は88安打となりますので、安打に締める本塁打率は.443となっています。

この1997年はランディーバース選手(阪神:37本)、落合博満選手(中日:28本)、カルロスポンセ選手(大洋:35本)、原辰徳選手(巨人:34本)などの各チームの強豪打者を抑えての本塁打王となっている点も見逃せないポイントです。

ケビン・ミッチェル:福岡ダイエーホークス(1995年)

阪神のマイク・グリーンウェルと並び、「問題児」「不良外国人」のレッテルで名前が挙がる一人です。MLB時代の1989年はサンフランシスコ・ジャイアンツ在籍時に本塁打47本、打点125打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得。福岡ダイエーホークス移籍前の1994年はシンシナティ・レッズでMLB史上最長のストライキによるシーズン途中での中断ながら打率.326・30本塁打・OPS1.110(ナショナルリーグ2位)をマークして復活。

この年のオフにフリーエージェントとなり移籍先を探し、推定年俸4億円以上を提示した福岡ダイエーホークスでプレーすることに決まり、来日しました。

あの赤鬼ボブ・ホーナーを上回る直前成績を残していたバリバリのメジャーリーガーとして大きな注目を浴びました。1995年シーズンの西武との開幕戦で、初回満塁の場面から初打席初本塁打を記録

1983年の駒田徳広以来史上2人目の初打席満塁本塁打を放ちます。しかし、その後は故障の再発のため欠場が増え、シーズン途中で無断帰国するなど問題行動が目立ち、8月に2度目の無断帰国をしたためダイエーはミッチェルを解雇しました。

1995年は野茂英雄投手がロサンゼルス・ドジャースでMLBデビューをした年ですが、当時は「バリバリのメジャーリーガー」はどのくらい数字を残すのだろうかと皆んな期待に胸膨らませていた時代です。