" /> 平成のプロ野球を振り返る。第一位は野茂英雄投手MLBデビュー。 | さいたまたいさ

平成のプロ野球を振り返る

野球

今回は平成に起きたプロ野球の出来事を振り返っていきたいと思います。

改めて振り返ると色々な出来事がありました。

さいたまたいさが選ぶ重大ニュースを上位からあげていきます。

2019年にブログを始めた頃の記事の一部再編集になります。

野茂英雄投手MLBデビュー(平成7年:1995年MLBデビュー)

野茂英雄投手のMLB挑戦を第1位にあげました。戦後にプロ野球が根付いて数十年、日本の野球を大きく分類すると戦前と戦後、そして野茂メジャー挑戦前とメジャー挑戦後、と大きく2つに分けられる程の出来事です。

戦後の高度成長期にONを初めプロ野球のスーパースターが誕生し、子供達のスーパーヒーローが色々誕生しましたが、野茂メジャーデビュー前は日本の子供達の最大の夢はプロ野球選手になる事が一番でした。

しかし野茂メジャーデビュー後は野球の最高峰が日本のプロ野球からMLBへと代わり、今までの日本の野球界が大きく代わる出来事です。当時のマスコミは野茂英雄投手のメジャー挑戦に批判的でした。
当時はインターネット普及前ですが、さいたまたいさは日米野球や、日本に来たメジャーリーガーなどまた日本にプロ野球を見ていたファンとして、活躍出来ると期待していた1人です。当時のメジャーリーグは、ストライキ中でしたが初登板は1995年(平成7年)5月2日のデビューです。世間的にはあまり注目を浴びていませんでしたが、さいたまたいさはどうしても見たくてBS中継が見られる友人宅で観戦しました。

デビュー以降は世間で知られている通りで、さいたまたいさは当時更にバイトを重ねてLAへ野茂英雄投手登板を見たくて行きました。優勝の可能性もあった9月末のサンディエゴ・パドレス戦でしたが、優勝のためのローテーション変更で登板は見られませんでしたが、マイク・ピアザ選手やラウル・モンデシー選手など非常に魅力的な選手に満ちあふれていました

大谷翔平選手(平成25年:2013年NPBデビュー)

大谷翔平選手を第二位に上げました。大谷翔平選手は以前にも書きましたが、通常の選手以上に対応力が半端ないです。イチロー選手が大谷選手はホームラン王とサイヤング賞どちらも取る事が出来る可能性があると言いましたが、今まで漫画ですら非現実的だと思われていた事を現実に実現出来る可能性のある選手です。

野球に限らず、上記の野茂英雄選手もそうですが、誰もやったことの無いことにチャレンジすると非常に批判的な声を集めます。当初二刀流に関しては、プロ野球のOB初め批判的な声ばかりでした。
しかし今では誰も批判的な声を上げる人はいません。逆に野茂英雄選手同様にパイオニアとして評価されています。選手としての活躍は当然これからがピークを迎える選手ですが、ONに匹敵する、もしくはONさえも越える事が出来る可能性のある選手として第二位にしました。

2019年に書いた記事になります。

FA(フリーエージェント)スタート(平成5年:1993年)

今の野球ファンが当然に思っているFAも平成からスタートしました。それまで選手間のチーム移籍はトレードしかありませんでしたので、FA制が採用されチーム間の移籍が可能になった事はとても衝撃的な出来事でした

初年度の1993年には 松永浩美選手が阪神タイガースから福岡ダイエーホークスへ初の権利を行使して移籍した選手となります。同年に他3選手がFAを行使しました。駒田徳広選手が読売ジャイアンツ→横浜ベイスターズ、落合博満選手が中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ、石嶺和彦選手がオリックス・ブルーウェーブ→阪神タイガースへ移籍しました。

また、FA権を行使しMLBへ移籍した選手としては1997年の吉井理人選手がヤクルトスワローズ→ニューヨーク・メッツへ移籍したのが初となります。(野茂英雄選手と吉井理人選手の間にマック鈴木投手、長谷川滋利投手、柏田貴史投手、伊良部秀輝投手などがいますが、こちらは交換トレードなどによる移籍となります。)

今のFA制度にも色々と課題はありますが、プロ野球史上でも大きな変化のひとつです。

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)二連覇(平成18年:2006年、平成21年:2009年)

WBCの二連覇をあげました。WBC開催については、当初MLB側の一方的な開催通告やMLB中心の利益配分に反発し、日本プロ野球選手会も開催時期の問題から参加に反対の方向性でしたが、簡単にいうとMLBからの圧力があり日本も参加することになりました。今考えると信じられないかもしれませんが、第一回大会の日本で行われた予選は世間からほとんど注目を浴びていませんでした

さいたまたいさはメンバーや打線などを創造してワクワクしていましたが、予選初日(2006年3月3日)の日本VS中国戦は入場者数15,869人となっています。

この大会が世間的にも注目を浴びるのは2次リーグとなるアメリカで行われた試合からになります。
2次リーグ1組になった日本と同組は、アメリカ合衆国、韓国、メキシコとのグループとなりました。
その2次リーグの初戦はBASEBALL母国のアメリカ合衆国との試合です。

その試合で初回イチローが先頭打者ホームランを放ちます。その後3-3のシーソーゲームで8回表1死満塁で「アナハイムの悲劇」といわれた誤審がおきます。岩村明憲選手の左飛で、三塁走者西岡剛選手がタッチアップし生還しました。しかしその後、マルティネス監督が離塁が早いと抗議し、判定が覆ります。

この判定にはアメリカのメディアも試合展開よりも事の経緯を詳しく紹介していました。それから日本のマスコミでも注目を浴びたと記憶しています。そんなWBCですが、現在まで4回開催されました(※2019年記載時)が、平和史に残るプロ野球ニュースとしてあげました。

プロ野球球界再編問題(平成16年:2004年)

これは、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併を前提としている事が表面化され起きたのが発端となります。この事を聞いた日本プロ野球選手会と野球ファンからは猛烈な反発がありました。

またこれを機に経営難に陥っているパシフィック・リーグの球団が人気のあるセントラル・リーグへの救済を求めたことに加え、球界の独占的な支配を図っていると一般から見なされた読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーを初めとした一部人気球団が球団数を大幅に削減して8-10球団の1リーグ制を推し進めているのも表面化されました。

オーナー会議の席で西武ライオンズの堤義明オーナー(コクド会長)は記者会見の席上、「西武ライオンズ・千葉ロッテマリーンズ・北海道日本ハムファイターズ・福岡ダイエーホークスの4球団間で新たな合併を模索している」と述べ、これで「1リーグ10球団」構想が表面化する事になります。

またダイエー自体も経営難に陥っており、後にロッテととダイエーが合併の検討されていたことも明るみになりました。こうして紆余曲折あり、9月18日・19日にプロ野球歴史上初めてのストライキが開催されます。その後選手会と球団側の団体交渉が行われ、大筋では新規球団の加盟に関してのハードルが引き下げられ、ライブドアや楽天などの名前があがり最終的には今の東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生します。

この問題の根本は日本のプロ野球の体質からくる問題であり、今なお解決しきていない問題だと思いますが、結果的に表面化されたことはプロ野球界にとっても良いことではなかったかと、あの問題の後に感じます。

10.8決戦(平成6年:1994年)

プロ野球がテレビメディアの黄金コンテンツであったことが分かる視聴率をはじき出した試合です。
関東地区48.8% 関西地区40.3% 名古屋地区54.0% の数字が残っています。

改めてどんな試合だったかというと、日本プロ野球史上初めて「レギュラーシーズンの最終戦時の勝率が同率首位で並んだチーム同士の直接対決」という優勝決定戦です。

当時の規則では引き分け再試合制を採用していたため、これからもなかなか見ることが困難な状況での試合だといえるかと思います。長嶋茂雄監督の「国民的行事」発言も決して大げさではなく、スポーツ紙だけではなく、テレビ、新聞などの報道機関もかなりヒートアップしていました。

試合の結果は、ご存知の通り読売ジャイアンツの先発三本柱と称された槙原寛己投手、斎藤雅樹投手、桑田真澄投手のリレーで6対3で読売ジャイアンツが勝ち優勝となりました。

これからの日本の野球界のペナントレースでここまで注目をされる試合があるか分かりませんが、日本のプロ野球の歴史を振り返ると勝てば優勝と分かりやすく一番重要度の高い試合だったといえると思います。