さいたまたいさはPL学園が好きです。
自分の高校の校歌は覚えていませんが、PL学園の校歌は歌えます。
サビの部分は有名ですので知っている人も多いと思いますが、埼玉大佐は全て通しで歌えます。
やはり小学生の時に見た昭和58年夏の池田高校VSPL学園の衝撃が忘れられません。当時の池田高校は夏・春と2連覇を果たしていて、事実上の決勝戦とも言われた準々決勝の中京高校戦を3-1で撃破!
完全に3連覇を達成すると思っていた矢先の1年生のKKコンビのPL学園の登場です。
この試合でのNHK植草アナウンサーの名実況の「いつもやっている事を相手にやられた」(いつも池田高校が相手に猛打をふるっているようにPL学園の猛打が爆発しているの意)や「背番号1の水野が、背番号11の桑田に打たれました。」は、高校野球の主役が池田高校からPL学園に移ったのを象徴するシーンです。
試合は7-0でPL学園の勝利。桑田投手は5安打完封です。
野球の話を人とすると「何処のチームのファン」という話になりますが、その時は「PL学園ファンです。」と言います。
これはネタでもなく、本当の話です。世の中の野球ファンが減っているとはいってもまだまだ野球ファンは多いですが、さすがに高校野球の学校を答える人には自分以外に会った事がありません。
そこで年代ベストナインや各チームのベストナインは見た事があると思いますがPL学園でベストナインを考えてみます。
この記事を書いているだけでわくわくしますが、興味が有る方は少ないかもしれません。
その前にまずはPL学園について知らない人もいるかもしれませんのでPL学園について簡単なまとめです。ここでは野球部以外の事にふれません。
PL学園のPL=パーフェクトリバティ の訳です。
野球とはあまり関係はありませんが、PL学園に関するクイズが仮にあったら出される問題だと思うので頭の片隅までに覚えてもいいと思います。
次に野球部です。
硬式野球部は昭和31年(1956年)創部。昭和37年(1962年)甲子園初出場。この時は春・夏ともに出場。
春は準々決勝で敗退(PL学園0-9松山商)夏は2回戦敗退(PL学園2-5日大三高)
以降何回か甲子園にも出て常連校となっていきますが、やはり一気に名前が知れ渡ったのは昭和53年夏(1978年)の初優勝の時です。逆転のPLと呼ばれプロにもいった西田ム木戸のバッテリーを知っている人も多いと思います。
しかしこれは知らない人がいるかもしれませんが、同期に金石昭人投手もいるのです。
またまたPLが凄いのはその優勝の前にも有名な選手を排出している事です。
加藤秀司選手、新井宏昌選手の二人の名球会選手や金森栄治選手や尾花高男投手などもいます。
その後昭和56年(1981年)春、昭和57年(1982年)春と連覇を果たします。
以降は一番始めに触れたKKコンビ、87年世代と続きますが埼玉大佐が見ていた時代となり感情移入や記事が長くなり過ぎるのでウィキペディアで見てください。
前話が長くなりましたが、今度はいきなり結論です。
1.立浪和義 セカンド
2.宮本慎也 ショート
3.松井稼頭央 レフト
4.清原和博 ファースト
5.吉村禎章 ライト
6.福留孝介 センター
7.今江敏晃 サード
8.木戸克彦 捕手
9.桑田真澄 投手
監督 中村順司
でどうでしょう。松井稼頭央選手を外野(イメージは内野ですが晩年は外野登録されていますので選びました。)というのに違和感を感じる人がいるかもしれませんが、選ばなかった選手でもメンバーの層は厚くなっています。
このスタメンだけでも名球会メンバーが多数ですが、選ばなかった中でも名球会のメンバーがいるとはどれだけ贅沢でしょう。
PL学園全盛期はユニフォームを見ただけで勝てないと思いました。
しかしあのPL学園もご存じのように廃部となりました。
あの熱狂した甲子園でさえも後何年かしたらスタイルが大きく変わっているかもしれません。
しかし時代に起きた出来事を後世に伝え、新しい人達がまた新しい時代を築いて行くことが未来への架け橋になるんだと思います。
という事で埼玉大佐が選んだPL学園ベストナインを未来へつないでいくためにも何かご意見があればお気軽にお問い合せください。